矢山利彦コラム

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仏のように見、仏のように知る心はどこにあるのでしょうか。
心の本来の姿とは・・。

ヒーリングへの道しるべ 2011年8月 『ほろとろぴっく通心』より
仏のように見、仏のように知る心はどこにあるのでしょうか。
心の本来の姿とは・・。

(前回のつづき)


十一、「大いに笑い、大いに喜び、極めて忿(いか)り、極めて哀しむ。比の如き類、各々損ずる所多し。」

三教指帰 巻の中

 おもしろいことがあれば、大いに笑い、嬉しいことには大いに喜び、また何かに対して極度に怒り、極度に悲しむ。これは、実に人間らしい態度と思えます。しかしよくよく考えてみると、外からの刺激に対して条件反射のように反応しているだけではないのでしょうか。そのような過度の感情を制御しないままにしておくと、禅定に入り仏心に気がついていくことは難しくなります。

十二、「一切の凡天の心処は、自ら了(りょう)すること能(あた)はずといえども、然(しか)もその上に自然に八辨(はちべん)あり。合蓮華の形の如し。但し、この心を観照し、それを開敷(かいふ)せしむ。」
法華経開題

 我々は皆、普通の心の働きでは、自らを明らかにして悟ることは難しいものです。しかし、心の働きの次元を上げると、そこには胎蔵界の曼荼羅に象徴されるように、八つの聖なる心の働きがそなわっています。その八つの心の花びらは蓮華の蕾のようにまだ開かれていません。この心の存在を知って、通常の心と照らし合わせてよくよく見つめていると、この蓮華は満開に咲いていきます。

十三、「『仏知見とは、何(いず)れの処(ところ)にか在るや。』凡夫の内心の最も中に在り。汗栗駄心(かりだしん)なり。将(まさ)に観音を覚らんと、またかくの処に於て、蓮華の形を思え。」
法華経開題

 仏のように見、仏のように知る心はどこにあるのでしょうか。それは我々すべての人間の心の内の最も深い部分にあります。それを「カリダ心」といい、観音菩薩に通じる心なのです。

その心を知るには、心臓に蓮華をイメージするのです。

ここで「おもしろそう」と試みる人と、「蓮華をイメージしたからといって何になるの?」と理屈で考えてやらない人に分かれます。あなたはどちらですか。  

十四、「法海一味なれど機に従って深浅あり。」  
請束目録

仏の教えを学んで悟りを得ようとする人にとって悟りという言葉は一つです。しかしその人の求める熱意にしたがって、得られる悟りの深さは全くさまざまなのです。  

十五、「我が心は無色無形なりと雖(いえど)も而(しか)も本来清浄にして潔白なること、猶(なお)し満月の如し。」
秘蔵記

我々の心は物質のように形の定まったものではないので、様々に揺れ動き、その模様を変化させます。しかし、本来の姿は清らかで、煩悩にけがされておらず、それは美しく輝く満月のようです。  

十六、「一念の浄心は宛(あたか)も帝網(たいもう)の如し。」
念持真言理観啓日文

ひたすら深く、純粋に思うとき、実在の世界では、全てが網の目のようなネットワーク状につながっていることに気がつきます。そして、思いという情報が広がり伝わった結果、現実が目の前に生まれ出てくるのです。                      


(つづく)

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